山陽道 24日目【完歩】

2011年12月19日

長府~下関

いよいよ長い山陽道の街道歩きも今日一日午前中でで完歩。よく歩いたものだ
下関駅近くの東急インホテルよりJRで昨日の起点、長府駅まで戻り駅前の街道を8時10分スタート。
長府~下関までの間は見るべき史跡が多いのでゆっくり見ながら歩きます。
        長府駅前の街道  8時10分 スタート
   下関永福寺前の山陽道起点  14時18分 完歩
          31.542歩  18.92km  1.340kl

下関駅から暫く今来た山陽道を車窓から広島駅までの間、想いふけながらJRの普通電車で帰宅の途に着き、広島駅から新幹線で新大阪まで乗り帰宅の途に就きっました。

道中地元の親切な方々に助けられ、無事完歩出来ました。お礼申し上げます

山陽本線の長府駅です最終日にふさわしい良いお天気に恵まれました。

駅前の十字路より街道を振り返る

長府駅前からの街道を暫く南西に進む街並み

左に長府運動場と右に山陽本線の間の街道を抜けて進んでいきます

右に元長府の 忌宮神社の御旅所

八幡御旅所  八幡御旅所の前から街道を振り返る

すぐ先で小さな川に架かる八幡橋を渡ります

街道沿いの古さを感じる土塀 狩野芳崖宅跡 幕末から明治にかけての画家、近代日本画の父といわれています

さらに進んだ左に 菊舎旧宅跡 江戸期の代表的な女流俳人

すぐ先、交差点東(左)の国道2号線と9号線が印内交差点で分岐してきた国道2号線を印内西交差点で横断します。交差点を渡り振り返る

交差点を横断すると長府金屋町に入ります。すぐ先で印内川に架かる鞏昌橋(きょうしょうばし)を渡りますが、手前この辺りに 一里塚跡 があったようですが痕跡はありません また 駕籠立場跡でした

印内橋を渡ると【長府宿】に入いります
赤間関宿まで7.9㎞の地点です。長府という地名は古代律令制度化で長門国府がおかれたことに由来するといわれています。現在の忌宮神社を中心一帯に、国衙・国分寺・長門鋳銭所があったと推定されている。長府は古くから政治的・軍事的に重要な地であった。
その後、長州毛利氏の支藩として毛利秀元を藩祖として長府藩が成立し城下町が形成された。秀元は慶長七年(1602)に長府に入り勝山城を修築、城下町割りを行い、江戸時代14代にわたり5万石(実高30万石)といわれた城下町で明治まで続き大いに栄えた。
幕末には、高杉晋作による奇兵隊を率いて功山寺に決起し倒幕維新への拠点となった地。
明治以降は本藩萩同様に政治の地から取り残された結果、今も静かな城下町としての遺構が数多く残る街並みであります。

印内川を渡ったすぐ右に 大乗寺 奇兵隊士の墓があります

南隣に続いて 浄土真宗本願寺派称名山徳応寺 一字庵菊舎尼(田上菊舎)の墓と句碑があります

さらに南に進み信号を右に入ると 法華宗法華寺

信号を右に入ると法華寺

商店街の街道を進みます。この筋は山陽道でありますが、乃木将軍にあやかって「乃木さん通り」と呼ばれています

乃木さん通りを進んでいくと右に 浄土真宗本願寺派鼓石山正円寺

境内には天然記念物の樹齢千年と言われる銀杏の大木があります

続いて南隣に 浄土真宗法性山本覚寺
山門は天馬門と呼ばれる、柱に馬の彫り物が飾られています

境内には鏡山仇討で有名な「お初」及び俳人「菊舎尼」の墓碑があるようですが分かりません

さらに南側に 浄土真宗本願寺派立善寺 が並んでいる

立善寺から60m程進んだ十字路右(西)に入ると 乃木神社の鳥居があります

【寄り道】乃木神社の参道を進みます

乃木神社

大正九年(1920)1月30日創建。境内には乃木夫妻の銅像や16年間過ごした旧宅を復元・宝物館があります

乃木の名水 乃木家が使っていた名水

乃木夫妻の銅像と愛馬

夫妻の銅像の傍に 名馬壽号終焉の地、隠岐の産碑

復元した乃木夫妻が暮らしていた質素な住まい

乃木夫妻の写真と座椅子

乃木大将の子供、二人とも日露戦争旅順攻撃時戦死

乃木復元旧宅と宝物館

乃木神社西側の土塀の間の 横枕小路 長府城下町の小路の中でも代表的な通りで、乃木家もこの地にあった

乃木神社の北側にある 吉岡家長屋(長府宮の内町)江戸時代後期の建物様式を残す

この付近一帯は 長門国 国分寺跡
吉岡家長屋の北側、国分寺跡の碑を右にみて、北に覚苑寺参道を進んでいきます

黄檗宗法輪山覚苑禅寺
元禄十一年(1698)長府藩主毛利綱元が、宇治黄檗山万福寺の悦山道宗禅師を招き創建。功山寺・笑山寺とともに長府藩の菩提寺となる

境内地にある 長門鋳銭所跡
奈良・平安時代に銭貨の鋳造を行った工房跡。我が国最初の金属貨幣「和銅開珎」を鋳造した長門国鋳銭所の跡地で、国の史跡指定を受け鋳銭遺物は重要文化財として長府博物館に展示されている。また春は梅・桜、秋は紅葉の名所として知られています

旧勝山御殿玄関跡 現在庫裡として使われている、元勝山御殿本丸の玄関

境内のここにも建つ 乃木希典銅像

長府毛利家墓所入口

第三代藩主 毛利綱元、 第六代藩主 毛利匡広、 第十三代藩主 毛利元周

毛利元周の墓
坂本龍馬を高く評価した、長府十三代藩

再び乃木神社にでて街道に戻る途中右に忌宮神社があります、その摂末社の八坂神社
忌宮神社境内内の 八坂神社 明治の末、神社合祀が進められ、長府においても明治三十七年~四十四年にかけて推進されて、忌宮神社境内社八坂神社にまとめられた。

宿祢の銀杏 銀杏は生きた化石ともいわれるほど地球上で最も古くより見られる植物。古木の子孫の木が傍に育っている

数万庭の由来と鬼石の説明

忌宮神社
長門国二の宮で、仲哀天皇・神功皇后が西国平定を祈り、この地に豊浦宮を建て、7年間滞在したといわれる。毎年8月7日から1週間行われる「数万庭」は、境内の鬼石の周りを十数メートルもある竹の幟を抱えて回る「天下の奇祭り」として知られています

境内の 荒熊稲荷神社 文化・文政年間、長府藩主十一代毛利元義が参勤交代の帰途、京都伏見稲荷大社より御分霊を勧請したもの

乃木さん通りの街道に戻り、乃木神社への参道の筋を見る

60m程先右に、忌宮神社への鳥居と参道があります

鳥居の前街道を挟んだ向かい側(東)には、東に延びる筋があります、鳥居前通りと呼ばれ 石標 が建っています。「忌宮神社御神輿の海上波御の道筋にあたり・・・・・」の 石標

乃木さん通りを南に200m程進みます

長府南之町の交差点に出ます、街道は右に折れますが【寄り道】をすこしします

右に折れる前に交差点を真っ直ぐ少し行くと檀具川に架かる檀具橋があります。橋を渡ったところから乃木さん通り(山陽道)の街筋を振り返る

橋の手前左に長府の老舗料理屋「古串屋」

檀具橋から檀具川沿いに西を見たところで
侍町
五万石の長府城下町、家老職・御馬廻役などの藩の重臣・側近たちの屋敷を構えていた町筋。侍町と檀具川が交わる地点に木戸が設けられ、藩の御用所も置かれていた。
侍町の背後の小高い丘陵は土肥山と呼ばれ、源平壇ノ浦合戦の後、追捕使として源氏の勇将土肥実平が、この山に居城を構えたところからその名がついた。侍町の由来もその時この辺り一帯に侍を配置したのが由来といわれています。土肥山の手前侍町内に、臨済宗東福寺派日頼寺があります。毛利元就の四男元清の法号による、元清の菩提寺。また、仲哀天皇が九州遠征で急死した際、神功皇后が天皇を埋葬したがあります。
檀具橋かさらに南に行くと、長府庭園:家老各西運長の屋敷跡で31.000㎡の敷地に滝や池を配置し書院・茶室・あずまや・蔵などが残っているようです。またそこから海側に行くと串崎城跡があります。串崎城は厚東氏が築城、大内氏を経て関ケ原の戦い後、初代藩主毛利秀元の居城となったが、元和元年(1615)幕府の一国一城令により廃城となった、石垣が残る。残念ながら少し離れているし時間がないので寄れなかった

一角に 長府藩侍屋敷長屋
中央に出入口を配し、一見長屋風の建物、構造の重厚さから上級藩士の住居

檀具川は長府の歴史と共に流れている清流で、鯉が泳ぎ、初夏にはホタルが飛びホタルの里として人々に親しまれている。流れに沿って行くと、左に笑山寺、右に功山寺と毛利家菩提寺が静寂の中にあります。檀具川の名前は神功皇后が遠征の時、この豊浦の地(長府)で祭壇を築き祀った時その祭壇の道具を流した川ということからその名がついたと伝わる

元の交差点に戻り街道を西に進みます

暫く進むと道は狭くなりますこの道筋の建物は新しく建て替えられているようですが雰囲気はいいです

古い街並みが古江小路・惣社町に残ります

街道右角に 大庭傳七・柯公旧宅跡(惣社町)があります。大庭家は長府の大年寄りを務めた家柄、傳七は勤王の豪商白石正一郎の弟で大庭家の養子に入る。後、藩士に取り立てられ国事に奔走する。明治五年明治新政府に出仕するも五十四歳で病死。柯公は傳七の三男として惣社町で生まれる。二十三歳でウラジオストックに渡りロシア商館員を経て日露戦争に従軍、その後新聞社の記者として活躍、大正十年五月革命後のロシアを検分すべくモスクワへえ旅立つもスパイ容疑で投獄、翌年釈放されたが消息を断つ。平成四年十月ロシア政府により名誉回復。(角の説明文より)

さらに街道を進むと十字路右正面に 長府毛利邸 お城の様な石垣 手前の十字路を少し右に折れる

石標二基 
「風呂屋小路の名を伝えられるが、古くはこのあたりまで入江となっていたことから古江小路といわれる」 「古江小路 切通し」

古江小路は土塀が続き城下町の雰囲気が漂っている。素晴らしく見るところが多く回りきれない。もう一度ゆっくりと来たい街である

古江小路の左に 菅家長屋門・錬塀 
侍医兼侍講職を務めた格式のある家柄。藩祖毛利秀元に京都より招かれた。長屋門は代々藩中医家随一の家柄にふさわしい構えで、武家屋敷の構えとまた趣の違う重厚な建物。また、長屋門を中心に左右にのびた石垣の上の練塀は長府城下町の年輪を象徴する代表的なもので調和が美しい、伏せ瓦の下に施された格子窓は城下町の遺構をして貴重なものです。(説明文から)

古江小路から毛利邸の石垣方向を見る

毛利邸の長い石垣と塀

毛利邸に入る入口右に 総社跡の説明碑

長府毛利邸
14代当主の毛利元敏が、明治三十一年(1898)に起工し明治三十六年に完成、元敏公が東京より下関に帰住して建てた。大正八年(1919)まで邸宅として使用されました。その間、明治35年11月には、明治天皇が熊本の陸軍大演習の視察の際、当邸に宿泊された。武家屋敷造りの重厚な母屋や回遊式の日本庭園は新緑や紅葉時にはことのほか美しいようです

入り口左側には 明治天皇長府行在所碑

玄関

回遊式庭園と母屋

毛利邸を右にみながら街道は左(南)に大きくカーブをしながら進みます

右に 曹洞宗功山寺の総門
鎌倉時代末期に臨済宗金山長福寺として嘉暦二年(1327)創建。弘治三年(1557)、毛利元就との戦いに敗れた大内義長この地で自刃して名門大内氏は滅亡、寺も荒廃したが、長府藩主初代毛利秀元が復興して曹洞宗に改宗した。秀元の死後、法号をとって功山寺と改称され、二代藩主光広が秀元公の霊位を寺に安置して以来、長府毛利の菩提寺の1つとなった。寺の 裏に、秀元はじめ歴代藩主の墓や大内義長の墓があります。

功山寺の総門を入ると 山門
壮大な二重櫓造りの山門は、安永二年(1773)十代藩主毛利匡芳の命により再建された。禅宗様式を伝える貴重な文化財

仏殿 (国宝)
元和二年(1320)の建立で典型的な鎌倉期禅宗様式。仏殿の裏手には毛利家を中心にして墓所があります

大内義長の墓 義長の辞世の歌
   さそうとも何か恨みん時来ては
      嵐の外に花もこそ散れ

大内氏は室町時代の守護大名として中国一円を治め、山口市を都に繁栄した。しかし重臣陶晴賢の謀反により天文二十年(1551)三十一代義隆が長門深川大寧寺で自害、陶晴賢も毛利元就に敗れる。
大内義長も弘治三年(1557)毛利軍に敗れ長福寺(現功山寺)にて自害、ここに名族大内氏が滅亡した。
功山寺墓地に残る三基の宝篋印塔が大内義長主従の墓と伝わる
功山寺の墓地には、坂本龍馬と交流のあった長府藩士、三吉周亮・印藤津(豊永永吉)・三吉慎蔵らの墓もあります。
功山寺に隣接する市立長府博物館は「長門尊攘堂」を前身とする資料館には毛利家に関する遺品や幕末維新資料など、また「坂本龍馬愛用の飯椀と湯吞」「新政府綱領八策」など貴重なものが所蔵している。
初代藩主毛利秀元はじめ九人の藩主の墓が並んでいます。
また功山寺は、文久三年(1863)におきた八月十八日の政変で都を追われた七卿のうち三条実美ら五卿が功山寺に滞在した。翌雁治元年(1864)12月15日に高杉晋作が五卿を前にして、奇兵隊・遊撃隊・力士隊を率いて挙兵したところで、維新の原動力となった(高杉晋作決起の地)。

三吉慎蔵の墓
長府藩士 三吉慎蔵の墓 明治34年(1901)亡くなる。十四代藩主元敏公より毛利家の墓所に近い墓地を下賜される
坂本龍馬とも深く親交があった

名門大内氏最後の城主

仏殿の裏側に入っていきます

長府毛利家の墓所

初代毛利秀元ら九人の藩主の墓が整然と並んでいます

境内に 高杉晋作回天義挙銅像

七卿潜居跡
文久三年(1863)八月の政変で七卿は京都より追放山口にはいった。翌元治元年当時五卿になっていた三條らを太宰府に移すことになり、その間、功山寺に潜居したところ。太宰府に移る十二月十五日夜、高杉晋作は潜居の間に挙兵の決意を述べ、功山寺門前で義兵を挙げた

功山寺門前の 高杉晋作決起の地石碑

見学も終わり門前に出て、街道を進みます長府川端の街並み

功山寺の東(左)、檀具川の対岸に長府毛利氏の菩提寺の一つ、曹洞宗笑山寺 がありますが時間的に無理なので残念ながら寄るの諦めました。笑山寺は毛利秀元により祖母乃美大方の菩提寺として1652年に建てられたお寺で、秀元の父穂碑田元清の法号にちなみ笑山寺と名付けられた。二代光広・七代師就が祀られています。

笑山寺はじめ、長府の街中については、別途、坂本龍馬脱藩野道の最終章の部分に載せていますので併せてご参照ください

功山寺の先は上り坂となります 野久留米道 と呼ばれています(山陽道はこの道なのか、坂本龍馬脱藩野道で歩いた海沿いの道、何方がそうなのか両方歩いていますので)

暫く静かな街道を進んでいくと、長府野久留米町に入ります。右手小川の袂に
石碑「軍人広瀬中佐亡友展墓記念碑」と刻む。
広瀬中佐は日露戦争の旅順港において戦死したのは有名な話。この碑は無二の親友福田久槌少尉が日清戦争前に病死した時、墓参ができなかったので、日清戦争出征時ここに立ち寄り墓参した。その後日露戦争で壮絶な戦死を遂げた
碑の前からの野久留米道の坂

碑の前から振り返ったところ、小川を渡り緩やかな野久留米道の坂を進む

暫く歩くと右手に 庚申塚と一石碑縄で飾られている庚申塔

すぐ先で檀具川をわたります、川は右に離れていきます
50m程で道は分岐します、右の旧道を進み少し入ったあたり 辻堂峠 当時の面影はない

さらに進んで分岐した道と合流する手前右のすこし高台に 清水の地蔵

地蔵の傍に 自然石の一字一石塔 地藏の前、街道沿いには小さな 五輪塔と横に 湧き水跡の石の囲い旅人はかつてここで喉を潤したことでしょう

地藏と一石塔

辻堂の前で合流したところで振り返る左が辻堂

右手高畑地区に入りますと平家塚・霊鷲山(標高228m)の案内表示があります。
この合流する先の道は広くなりますが街道は一旦合流するも、すぐ右手の旧道に分かれくの字に進みます。左の広い道路は最近作られた新道路です

新しい道路

右手山際の旧道を道なりに進んでいきます左に平行して新道路が走る。旧道左に小川が沿っています

やがて左からの新しい道路に合流します。そこから振り返ったところで、向かって左の山際を歩いてきました

新道に合流して左の小川に沿い350mほど真っ直ぐの道を進みます。街道はそこで南西から西にカーブして進みます、小川は左に一旦離れます。左手には茶臼山(標高96m)があり茶臼山を北側から南西に巻くように進んでいる

前田地区に入り、左少し低くなっている所に生コン工場があります。この辺りに 角石陣屋 があったようです
生コン工場の過ぎた先から振りかえる

すこし進むと分岐道があります、右に前田郵便局があり街道は右の郵便局の前を進みます。郵便局の傍で小川が交差しています

郵便局の前から分岐方向の旧道を振り返る

郵便局の前から300m程南西進み十字路を越えた少し進むと旧道は左に円を描き進むと、すぐ道は分岐するところがありますが、道なりに左の道を進む。右は先で消失します

前田集落は国道9号線より高くなって街道を進みます。左前方に関門橋が見えてきました

振り返ったところで正面の山裾を進んできました

前田集落の中を進みます

左には関門海峡に入る周防灘の西の入り口が見えています。対岸は福岡県です

街道右手に 貴船神社の参道入口の鳥居 があります、近くに 曹洞宗照光山慈雲寺 もあります

下関市前田2丁目、街道は枝道が沢山ありますが道なりに南に進んでいきます。
貴船神社・慈雲寺に寄れませんでしたが、その辻を振り返りました。街道は右から来て手前に進んでいるところです

前田集落内を下っていきます

下っていくと国道9号線に出ますが、合流せずそのすぐ手前の旧道を右に折れます

少し【寄り道】
国道9号線に出て左に国道の信号交差点があります。この辺り右に須崎砲台跡、国道を200m程東に戻った二つ目の前田信号交差点、小川が交差するところから、さらに国道を東に進んだ辺り左高台に、かつて前田御茶屋跡古代山陽道の終着駅「臨門駅」があったと推定されています。
また幕末には長州藩により瀬戸内海側には多くの砲台が設置された。前田御茶屋台場跡で最も規模の大きな砲台跡であったが、元治元年(1864)八月五日イギリス艦隊を主力とする四ヶ国連合艦隊による報復攻撃で前田に上陸、前田地区を中心に焼け野原になった地区。最大の砲台跡の寄れなかったのが残念(後日の時に寄りました)

須崎砲台跡、その先の前田御茶屋台場跡、古代山陽道の終点「臨門駅」方向を見る

元の9号線手前の地点の戻り、右に折れる旧道

 坂の途中から旧道を振り返る

左が開けた細い坂道を上っていきます。この付近右高台には 駕籠立場砲台跡 があったようです、ということは下の国道辺りまではかつては海岸であったのだろう

坂道の途中から振り返ったところで右が国道9号線

左海側が開け景色がいいです左海側が開け景色がいいです

国道との分岐から150m程細い道の坂を上っていくと、突当りとなり真っ直ぐ進めませんので右に折れます。そこから振り返った景色、瀬戸内海対岸の門司には綺麗な形をした 古城山(標高175m)が見えます

右に折れて急斜面の坂を上っていく、右側一帯は住宅地として開発されています

110m程の細い坂を上ると右T字路に出ますので左に折れて西に進みます。その右T字路から振り返った景色

道は平たんになり高台を西に暫く進んでいきます。この辺りにも 杉谷砲台跡 があった

少し先右の山際に 石碑 「陸軍・・・・・・・・」

左に折れたところから400m程西に、3つ目の大き目の十字路に出ます。火の山公園に入り、公園は右手一帯山側広大に広がっているようです。またこの十字路の数十m地下を山陽新幹線が貫いています

十字路すぐ先左に、海峡ビューしものせきHがあります、入口に 石碑 「防三三・・・・・・・」刻まれた読めない

その先道は左から右にカーブして右手に下関市火の山ユースホテル海峡の風があります。公園内は道路整備により旧道は失われていて分かりません

公園内の道路西に進んでいきます

やがて公園に入る十字路から400m程公園内の道路を進みますと、右手に火の山ロープウエイ乗り場檀之浦駅があります。火の山公園の中心、火の山山頂へのロープウエイです時間があれば頂上の展望台からの景色は最高だろうが時間がなく残念です(脱藩の道の時上りました)

 ロープウエイの壇之浦駅近くから左下への道路を下る

国道9号線のみもすそ川信号交差点に出ます

 みもすそ川交差点で国道9号線を右に折れます。交差点より少し進んだ海側の公園内に平家茶屋があります

左のみもすそ川公園内に建つ 壇浦砲台奮址碑

長州砲(八十斤カノン砲9のレプリカが六基並んでいます。目の前が関門海峡、対岸の門司まで数百mしか離れていないようで、この海峡を当時の最新式の砲台を積載した連合艦隊が通り、そこから艦砲射撃を受けるとひとたまりもないでしょう。前田砲台と並ぶ大規模な砲台跡で二十数門の大砲を備えられていたという

関門海峡の波も今日は穏やかです青くてきれいです

海峡対岸の九州

大砲が並

御裳(みもすそ)川碑

公園内を少し進むと、壇ノ浦古戦場跡源義経八船飛びの像

平知盛の碇を担いて入水する像

川はないがかつてこの付近にみもすそ川が流れていたのだろうか、朱色の欄干のみもすそ川橋があります。川の河口の沖合で二位の尼に抱かれた安徳天皇が入水したと伝えられています

安徳帝御入水之所碑 二位尼辞世
     今ぞ知る みもすそ川の
      御なかれ 波の下にも 
        みやこありとは

古の源平合戦の壇之浦古戦場跡 に立ち海峡を望む。この海で平家滅亡の合戦絵巻は想像もできないが感無量の思いがする。暫し物思いにふける

この海峡の下を、歩道専門道路が通って対岸にいけます以前家内と来た時、歩いて門司に行ったことがあります

関門橋は昭和48年完成

関門橋と人道トンネル
関門橋の下を潜ります。関門橋は全長1068m。また関門トンネル人道は1958年に21年間の歳月をかけ完成した、下関と門司を繋ぐトンネルで、エレベーターで約50m降り歩いて約15分で対岸に渡れる人道トンネル

関門橋を潜った先、国道の山手側に 立石稲荷神社 の真っ赤な鳥居が見えます

稲荷神社の向かいの海中にしめ縄がかけられた 烏帽子岩

烏帽子岩の前から振り返る、烏帽子岩の少し向こうには関門橋の橋桁が見えます

暫く進んだ左に 蛭子神社

蛭子神社の朱塗りの橋からの景色
立石稲荷神社・蛭子神社を見て過ぎたあたりに壇ノ浦町には 八軒屋砲台跡 がありました

【赤間関宿】に入ります

山口県下関市。山陽道の最期の宿場、長州藩の重要な商港都市として栄えました。
平安時代末には源氏に追われた平氏が壇ノ浦で滅亡。南北朝時代には足利尊氏が九州へ西下、京都奪回の途次に通った。また豊臣秀吉が九州平定時に滞陣。幾たびかの歴史があるが、江戸時代に入り赤間関が港湾商業都市として発展した。北前船の寄港地となり出船千艘・入船千艘といわれる賑わいを見せた。江戸中期以降に最盛期を迎え、船問屋・鰹仲買店・酒屋・質屋・呉服屋など400店以上の店が軒を連ねたという。
また幕末になると一躍、尊王攘夷の先駆けの志士や豪商が活躍する舞台となった赤間関の港です。長い山陽道もこの先でいよいよ終点となります

すぐ国道右側に 道標 「右 上方道 左すみよし道」

右手に 浄土真宗本願寺派願海山極楽寺 極楽寺の歴史も古い、幕末には一時奇兵隊の陣が置かれた

奇兵隊屯所跡碑

 すぐ先右に 日本西門鎮守八幡宮の鳥居と参道 があります赤間神宮と極楽寺の間を入っていくと石段があります

赤間神宮朱塗りの社務所の建物を左に見て石段を上るのですが、そのまま進むと赤間神宮の拝殿の横に出てしまうので、石段の手前で左に折れて赤間神宮の正面に出ます

赤間神宮の正面鳥居 に出ます

安徳天皇阿弥陀寺陵

正面左、安徳天皇阿弥陀寺陵と水天門との間に 太鼓楼

 水天門とその下に太閤岩・龍神池

水天門からの 外拝殿と奥に内拝殿

内拝殿は見えない

第十代崇神天皇より第八十一代安徳天皇までの千二百七十六年間歴代皇位継承の三種の神器
八咫鏡 奉鎮の碑

 正面右に前述の 日本西門鎮守八幡宮

水天供養塔:十三重御宝塔

耳なし芳一堂

耳なし芳一堂の横を入ると 平家一門之墓碑

平家一門の墓 が並びます

   七盛の 墓包み降る 椎の露    高浜虚子

内部の見学も終わり水天門を潜り街道に戻ります

国道9号線から赤間神宮を再び見たところ

神宮を過ぎたすぐ右手の高台に 日清講和記念館・春帆楼
背後の山の中腹には、勤皇の豪商白石正一郎の墓があります、次の脱藩道を歩いた時に行きました。長府始めこの付近も再度歩いて見学していますのでご参照ください

春帆楼の下に、赤間宿本陣伊藤邸跡の碑 坂本龍馬もお龍とここの本陣の部屋に自然堂と名付けて夫婦で暫く過ごします

関門航路改修事業 草創の地碑

国道を挟んだ海側に 朝鮮通信使上陸淹留之地碑 があります

春帆楼前の街道から(国道9号線)を振り返る

伊藤邸址の碑

本陣伊藤家は鎌倉時代から続く下関屈指の名家で幕末まで下関の中心的な役割を以て代々続いてきた。明治天皇の西国巡幸時の行在所となり、本陣として最後の役割を終えた

阿弥陀町を西に進み振り返ったところ

安徳天皇陵前から300m程進んだ先の国道9号線の信号交差点、左角は唐戸市場があります。交差点を右(北)に折れ数十mで左の細い道に入ります

左に 赤い鳥居が石段に沿って上っています、鳥居を潜りながら石段を上ると本殿があります
熊鷹稲荷神社と宮地嶽神社 が並んでいます

更に同じ台地上の西に亀山八幡宮があります台地上からの国道9号線

 亀山八幡宮の拝殿
亀山八幡宮は「関の氏神」として親しまれてきた。貞観元年(859)宇佐八幡宮の分霊を勧請して創建されたと伝わる古社

 亀山砲台跡
大鳥居の上部が見えます
中之町に入った、亀山八幡宮は山陽道の西端に位置し、国道沿いに大鳥居が建っています。
往時はこの辺りまで海岸線が迫っていました。その後埋め立てられて海岸線は少し離れてしまいましたが、大鳥居の周辺から九州に渡航する船が出ていたといわれています。
また鳥居の近くに 津口の船番所が設けられていました。幕末、境内には砲台が築かれ、文久三年(1863)五月十一日の午前二時久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商船へ第一弾が撃たれ米仏蘭三国相手に六回に渡わたる馬関攘夷戦いの火蓋がこの亀山砲台で、近代幕開けのスタートであった

また お亀茶屋跡 があったようです
伊藤博文夫妻の史跡跡で、慶応元年(1865)初夏刺客に追われた伊藤博文が亀山八幡宮の境内のこの茶屋に逃げてお茶子であった、木田梅子に助けられたのを機に1年後に夫婦になったゆかりの場所。
伊藤博文は明治四十二年(1909)凶弾に倒れた。夫人は大正十三年(1924)七十四歳で亡くなる。
    国のため光をそへてゆきましし
       君とし思へど悲しかりけし
  (梅子)

亀山八幡宮の石段上からの眺め、下は国道9号線。神社地は昔は島でした。関門海峡から九州連峯を眺める景勝の境内は、古くから鎮西第一勝の地と称されたそうです

本殿正面の石段を下ると 鳥居の傍に山陽道起点の碑
ここは山陽道の起点で九州渡航の起点なり
山陽道第一番塚なり
この石碑は明治十一年(1878)この地の渡船場が新設されたときに建てられています。藩政期にはもう少し下関駅よりに西に行ったところが起点、山陽道の一里塚があった。
実際の山陽道の起点はここではありません

実際の山陽道の起点はもう少し西になりますが、一旦近くにいた方に記念写真を撮って頂きました

亀山八幡宮参道入り口石段下西傍に、三好写真館跡がありました。「童謡詩人の金子みすゞ」が自殺する前日、昭和五年三月九日にここの三好写真館で撮っています

亡くなる前日に撮った写真

亀山八幡宮の門前と街道

【下関宿】

亀山八幡宮の西側、国道9号線の信号交差点に戻り、数十m右に折れ左の細い道を北西に下ります。前述の左の宮地嶽神社の前に出て50m程進むと東西の車道に出ます。ここで北西に旧道はあったが建物で街道は消失していますので、車道を左に折れるとすぐ広めの交差点にでますので道路を右(北)に折れて100m程進みますと信号交差点に出ます。この交差点で消失した街道が右斜め後方から合流していたようで。信号交差点を左(西)に折れ100m程進むと、57号線に交差する広い信号交差点にでます。交差点は五差路ですので、斜め左(西南)に進むとすぐ右に下関市役所があります

交差点に出てアーケードのある町筋を西に進む道

アーケードの町筋を100m程進んだ先の57号線の広い信号交差点の手前

交差点を左斜めに進むところの信号交差点左角に山口銀行があり、右手には下関市役所があります

市役所の前の道路を200m程進むと信号交差点に出ます。南部町の旧街道

交差点を真っ直ぐ越えて進みます、右に井上整形外科医院がありますその前から振り返ったところです。南部町です

すぐ右手に小公園があります。そこに 
金子みすゞと上山文栄堂 の案内板があります
明治三十六年(1903)、長門市仙崎に生まれる。本名金子テル。大正十二年(1923)、母の再婚先である下関市西南部町の上山文栄堂書店に移り住み、働きながら「金子みすゞ」のペンネームで童謡を創作始める。その後大正十五年(1925)結婚し一女が生まれるが、昭和五年(1930)に離婚。同年3月10日別れた夫が娘を引き取りに来る日、みすゞは26歳の若さで生涯を自ら閉じた。枕もとの遺書には娘を元夫に渡さないように、また前日の撮った写真の引き取り書が残っていたという、悲しい出来事であった。
その後世間から忘れられていたが、「若き童謡詩人中の巨星」といわれたみすゞの童謡が脚光を浴び、生誕100年を記念して20歳まで過ごした金子文栄堂の元の地に金子みすゞ記念館が建設された。
(長門市JR山陰線仙崎駅の北へ進んだところ右手に、また墓所はさらに北に行った遍照寺にあります)

下関に移り住んだ頃、20歳の写真

金子みすゞの案内板のすぐ先あたりの左に 本陣佐甲三郎左衛門邸跡 がありましたが今は何も痕跡はありません。下関宿には本陣が二つあった

小公園の奥に 浄土宗深水山西谷寺 が見えます

さらに進んだ右手奥に 浄土宗専念寺

国道9号線の一筋西側の筋を南西に進んでいきます。観音崎町に入り、この辺りに 馬関越荷方役所跡碑 が街道沿いにあったはずですが見落としました

そのすぐ先右に県指定有形文化財の 山口銀行旧本店

旧山口銀行のすぐ先で道路は右に大きくカーブします、その手前右の石段を上る永福寺への参道があります

永福寺門前

かつて 一里塚 があったようです。右に参道を上っていきますと 臨済宗南禅寺派重関山永福寺 今から千三百有余年前、推古天皇の御代に百済の国の王子が聖徳太子を慕われ来朝されたときに、護持念仏の観世音菩薩の御尊像を安置され、一字を建立されたのが始まりの古刹。代々大内氏・毛利氏により庇護されたが、昭和二十年七月戦災により諸堂悉く消失に帰した

永福寺からの眺望

永福寺参道石段を下ると、山陽道の起点海岸線は下の街道近くまであったようです。新国道9号線はかつて海で埋め立て地

参道入口辺りが 旧山陽道・赤間関街道の起点です

山陽道 完歩

長い道のりであったが天気も良く爽快な気持ちです。14時18分着この後、帰省のため西の下関駅まで進みます。

この先、下関駅までの道は、伊能隊計測時の文化三年(1806)の海岸線の旧道に沿って進みます。
永福寺参道石段口を過ぎると道は右にカーブを描いています。道なりに西北に方向を変えて200m程進むと信号交差点に出ます。交差点から西南の国道9号線に進んでいたようですが消失しているので、交差点を南に下り国道9号線の信号交差点に出て横断して、右(西)に50m程進むと、左に東武住販本社の西側の細い道を左に入ります。
そこから270m程U字形に半円を描き110m先の国道に合流しています。再び国道を北に横断して50m程進むと、左角にある遊福旅館HでT字路になりますので10m程右に折れて左に曲がります。再び60m程先左角に下関入江郵便局のところでT字路になりますので10m程左に折れてすぐまた右に折れる。
入江町に入り、今度は山型に左に円を描きながら100m程道なりに進むと広い道路に出ますので、円の続きで信号も横断歩道もありませんが左斜め(南西)に60mほど進み、国道9号線の北側の道路に出ます。
道路を右に折れて150m程西に進むと右手に光明寺があります。いま来た道の左は伊能計測では、海岸線の入江が沿っていました

西入江町に入ると右手に 浄土真宗本願寺派光明寺
久坂玄瑞や入江九一らが光明党を結成した地です。文久三年(1863)四月の事

光明寺のすぐ西隣に 日和山公園入口の案内板公園への長い石段が続いています

石段の上から見たところ最後にきつい石段

港がみえる丘の径の石碑

頂き近くの右手に春風楼の近くにあったのをここに移された巨大な 常夜灯「点かずの灯篭」とよばれ、謂れがあるようです

灯籠の背後高台に建つ高杉晋作像 ここからの港の景色がよく見えます晋作は毎日ここから眺め日本の未来を見つめている
高杉晋作像と日和山公園
昭和十一年に建てられた銅像は第二次大戦の金属供出で失われ、現在のは備前焼の胸像です。
当初の銅像は台座を除き4.8m、重さ6トンの及ぶ巨大な銅像であったという

元の道路に戻り西に進み商店街に入ります

光明寺から500m程進んだ先右手に大歳神社の大きな鳥居があります
豪商であり勤王志士たちの多くを支援した、白石正一郎が文久二年(1862)正月の奉納した鳥居

高くて長い石段が続く 大歳神社 神社も移転されてきたが、創建は源平時に遡る古社。幕末期には七公卿落ちなど歴史がある 神社の上まで上りたいが時間がないので諦める

石段口に戻りその先すぐに左にカーブして国道9号線の竹崎信号交差点に出ます。国道南側にJR下関駅があります。この辺りの駅を含め全て海岸線であったそうです。

ここで長い山陽道の街道歩きは終了します。
時間があれば駅の西側を進んでいくと、高杉晋作療養の地・高杉晋作終焉の地・白石正一郎旧宅の跡・桜山神社・厳島神社・七卿史跡・萩藩新地会所跡・妙蓮寺、また下関駅の南の瀬戸内に宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘島である巌流島が門司港から定期船が10分で出ている。等々史跡が沢山あるので巡りたいが、これから和歌山に帰らないと居けないので次の機会に来てみたい。
坂本龍馬脱藩野の道の最終章で上記の分も含めて回
る機会があったので、またご参照していただければ有難いです






  


よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA